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2009年 05月 10日
ちょっと昔を顧みる「中込あのころ」今回は、飲食店を経営する御影さんによる中込の道路事情の今昔の体験談を掲載いたします。
ほとんどの方が錯覚におちいる区画整理前の中込銀座通りと、旧野沢橋との位置関係について、説明してみようと思います。 旧野沢橋を野沢方面から渡った道路は、左側に進路を変え、銀座通りを過ぎ柳田金物店さんのところで信号機が付いた四差路の交差点となります。 (①)そこは、当時中込商店街の中心地で、須江書店さん、くろさわ呉服店さんなどもあり、その地点は、交通の要であり、一番のにぎやかなところでした。 ここの交差点の信号機が佐久地方で一番早く設置されたってこと知っていましたか? 中込駅に行く、平賀・内山方面で群馬県へ行く、岩村田方面で小諸又は軽井沢へ行く、野沢・臼田方面で、諏訪あるいは山梨県へ行くといったように、この交差点からあらゆる方面へ行けた訳です。橋場のバス停留所もそこにあり、昭和30年代~40年代はバス路線も全盛期でした。 地元の千曲バスのほか、川中島バスの長野行きや山梨交通の甲府行きも運行されていた。また、越中屋さんの前には、群馬県の上信バスが営業所を置いていて(②)、内山から富岡・高崎までの路線を持っていました。 区画整理の後、旧野沢橋から真っ直ぐに新たに道路が生まれ(以前は細い路地があり水上町、横町へ行く事が出来ました③)、旧道の銀座通りはなくなりました。 さらに旧野沢橋のなつかしいトラス橋もその後平成11年に解体され、同じ位置に新たな橋が平成12年に建設され、名前も同じく野沢橋です。 それゆえ、何十年ぶりかに中込を訪れた方のほとんどは、あまりにも変わった中込をみて、銀座通りと今の野沢橋から橋場公会堂までの道路を重ねて見てますから、道路の位置が変わったのではなく、周辺の建物だけが移動したと思っているようです。 地元の人が質問されたとき詳しく説明しますと、お客様は「なるほど」と言ってくれますが、まだ納得されてない様子です。 現在道路の脇にある「金龍」と「柳田金物店」の建物は区画整理前とまったく同じ位置で移動しておりません。 と言うことで大きく変わった中込の道路と町並みを区画整理以前と比較して見るのも興味をそそりますね。御影さん取材ご協力ありがとうございました。 ![]() ![]() 昭和56年の銀座通り。前方は野沢橋方面、右に明正堂、左奥が金龍。銀座通りの真ん中で右ページ④の九連店の基礎工事が進んでいます。 (加藤生花店提供) ![]() 野沢橋の解体工事。トラス構造の最後の鉄骨が撤去される。 (平成11年10月2日) ![]() 編集部からお願い シリーズ「中込あのころ」は、大変ご好評をいただき、様々な方よりご意見等寄せられ編集部一同喜びに耐えません。これから続けて行くにあたり中込、また周辺で、当時話題に上がったことや、面白く興味深いお話等がありましたら是非お聞かせください。商店会へご一報くだされば、取材にお伺いいたします。(薄謝進呈) 【中込商店街だより2009年5月10日付第179号より】 2009年 02月 27日
ちょっと昔を顧みる「中込あのころ」 今回は、橋場の南側にある中込公園の思い出を、近くに住んでいる高地さんに当時を語っていただきました。
昔は、現在より広い敷地で公園の一角にはお稲荷さんがあり、反対側には中込第一保育園があって、お遊戯、砂遊び、かけっこ等まるで園の庭のよう……。 滑り台、鉄棒、シーソー、ブランコなどもあり(一時大きな噴水もありました。夏は涼しげで良かったのですが、冬は凍結の心配もあり止っていました。しかしそれも、止まったままになりいつしか取り壊されました。)学校から帰ると毎日のようにこの公園で遊んでいました。そのほか石蹴り、雪合戦など四季折々、暗くなるのも気付かぬほど夢中になり、親によく叱られましたっけ……。 夏休みには、お決まりの「朝のラジオ体操」、お盆は盆踊り、スクエアダンスがあり特にダンスは大人気で、遠方から沢山の人が集まり夜遅くまで楽しそうに踊っていてとても賑やかでした。そしてサーカスです。仮設の大テントが張られ、象・ライオンなどの動物も一緒でしたから公園全体が独特の匂いと空気に包まれワクワク大興奮。そのうち団員と顔見知りになり、こっそりと見せてもらったり……。 そうそう団員の子供が転校してきて、3ヶ月足らずで友達にもなれない内に転校してしまいました。全国を移動しての職業だけに子供にとっては、迷惑なことだと少々かわいそうに思われました。 秋には橋場全体の町民運動会が盛大に開催され、それはもう各地区一家総出の一大イベントです。地区対抗でリレー、仮装行列など多彩な種目があり、老いも若きも一致団結し競い合ったものです。 さて、何もないときは紙芝居屋さんが来て飴を買ってもらうのがうれしくまた楽しみでした。 公園に面した家では大掃除の際の畳干し(昔は畳を上げての大掛かりのものでした)や大釜で大豆を煮ての味噌作り、醤油作りと自由に公園を使い、今とは違いおおらかな時代でした。 また母に聞いた話ですが、戦時中はこの場所に避難用防空壕がいくつか掘られていて、男は皆徴用されていていないので、婦人会の皆さんが中心になり作られたとか。でもあまり使われなかったみたいです。 現在はきちんと棚で仕切り、芝生が植えられ整備されていますが、「けやき」 の大木だけはそのままそびえ立ってカラスの巣作りに協力しています。 公園で遊ぶ子供を見ることも少なくなってきました。しかし、娯楽が少ない時代こうした各種催し物や楽しみの場所として地域住民にとって本当に大切な公園だったと思います。 ということで、ちょっと昔の中込公園の様子が手に取るようにわかりました。高地さんありがとうございました。次回の「中込あのころ」をおたのしみに。 昭和58年頃の中込公園。左に音羽屋・関口会館、公園のむこうに荻原写真館が見える。 (小林浜次郎氏提供) ![]() 大きなケヤキが歴史を感じさせる「中込公園」 区画整理により名称が「橋場公園」に変更になった ![]() 【中込商店街だより2009年2月28日付第169号より】 2009年 01月 29日
読者アンケートで「中込木工学校」について書いてくださった方がいます。この記事について臼田高校の校長先生からお電話をいただき、木工学校のことが詳しく載っている「臼高百年史」を御寄贈いただきました。
臼田高校は南佐久農蚕学校・中込木工青年学校・臼田高等女学校が統合して昭和24年に設立されました。今回は中込木工青年学校(以下「木工学校」)について、創立当時のようすや配置図を「臼高百年史」より要約してみました。 中込の発展 創立当時の中込のようすは、大正4年8月に佐久鉄道(現JR小海線)の小諸・中込間が開通し、同12月には羽黒下まで、大正7年には小海まで開通して鉄道の乗降客で中込駅がにぎわうようになります。※中込町の人口の記録によっても大正5年に3169人だったものが同14年には5145人と急激に増えた時期です。 ※正確には大正5年は「中込村」で、大正11年に町制が施行されている。 また大正12年当時、中込町には木工製作所7ヵ所、家具・建具製造業者十数ヵ所などがあり、ほかに木材に関する事業所が極めて多かったのです。 一方、南佐久郡下には町が3つあり、臼田町には南佐久農蚕学校、野沢町には野沢中学と野沢高等女学校があるのに、中込は町でありながら中等学校がなく対抗意識があったと思われます。 木工学校設立 木工学校は大正12年に創立されました。場所は旧中込学校のそば、現在の成知公園にありました。 正式名称は「町立中込実業補修学校男子工業部」でしたが通称として「中込木工学校」と呼ばれました。第1回入学生は20名で、校長は中込小学校長が兼務し、普通教科については中込小学校の先生や他校から兼任で招いた先生が教えたようです。 専任の先生 工作法、製図、実習については1年目から専任の高田律吉・高橋恒三の両先生が指導され、2年目には5名、3年目には6名の職員体制になりました。なお、両先生の給与は、年齢がそれぞれ32歳、25歳と若いにもかかわらず校長先生並みの額でした。 中込町当局はこの学校の実績を高めるため、良い先生を招いたと思われます。また、高橋恒三先生は開校時に着任されてから、統合して臼田高校の木材工芸科となった後も、学科主任として昭和32年まで、実に35年にわたり教鞭をとられました。 生徒作品展示即売会 生徒達が実習で学習した製作品を、毎年11月19、20日の恵比寿講に中込蚕糸会社(現在のカム21の駐車場付近)で展示販売しました。作品は生徒とは思えない立派なものばかりで、大変な好評を得て佐久地方の有名行事となっていました。その様子が木工学校第17回卒・大工原伍郎さんの回想記に生き生きと描かれています。 「(前略)当日は生徒の父母は勿論のこと、一般の入場者も多く、会場はすごい賑わいを見せたものだった。また生徒は、自分の作品に対する評価に関心をよせ、人の作品より自分のものが早く売れる事を願い一喜一憂したものであった。(後略)」 ◇ ◇ 本文・写真・図とも「臼高百年史」から引用し、編集しました。紙面の都合で戦時中や修学旅行などについては触れられませんが、この百年史は資料としてだけではなく、読み物としても飽きずに一気に読めます。興味のある方は、まだ多少の余部を販売中とのことですので臼田高校までお問い合わせください。℡82-2035 ![]() 実習風景…学生服、坊主頭の生徒が多い。かんなやノミを使っているようです。 ![]() 太鼓楼前にて ![]() 【中込商店街だより2009年1月31日付第165号より】 2008年 11月 07日
成田新道
ちょっと昔の中込を顧みる「中込あのころ」今回は、前回に引き続き中込の料飲街。前回は、「弁天通り」と「相生町」のお話を聞くことが出来ましたが、今回は、その西側の「成田新道」の通りについて、当時(区画整理前)そこにあった「工藤旅館」さんと、お菓子の「梅月堂」さんにお話をお聞きしました。 成田山が中込に? 成田新道はそのむかし、今野沢にある成田山を祀るにあたり中込の成田新道の北側(広和といっていた)への設置の話がありました。しかし場所や広さなど諸々の問題があり、結局野沢に祀ることになったのです。 そこで名前だけが残り、通りができたので、そのまま「成田新道」となりました。 今ここに成田山が祀ってあったなら、中込はいろんな意味で大きく変わっていたでしょうね。 夜もにぎやかな街 銀座通りより入ると花屋さん、お菓子屋さん、喫茶店の明正堂さん、お寿司屋さん等があり、その周りはスナック、バー、小料理屋さんが軒を並べ中ほどに柏屋旅館さん、お菓子の梅月堂さん、電気屋さん等があり、北側には、加藤新聞店さん、工藤旅館さんがありました。また、下駄屋さんや、染物屋、精米所、歯医者などもあり、いろんなお店と料飲店が一緒になり、一つの通りに形成されていて、料飲店が夜遅くまで営業をしているので一般のお店も閉店時間は遅かったみたいです。梅月堂さんも毎夜十時ころでもお客さんが結構来たのを思い出されたようですよ。 商工会館 成田新道のさらに西側の堤防よりには、公会堂の大きな建物があった。この建物は佐久鉄道の寄付で立てられ、一階は佐久商工会議所が使用しており、二階は大広間があり公会堂として使用し、会議所が中込原に移転した後も橋場の公会堂としてしばらく使用した。 まだ田畑も 警察署も当時より前になるが、その建物の堤防寄りにあり、後に野沢の派出所として、移転した。また堤防の内側や、今第3駐車場になっているところより国道の間は、まだ田んぼや畑があった。今では想像もできないくらいですね。 当時に比べ今は、昔からあるお店も世代交代等あり、新しいお店が7割位にまでなって、テナントが多く、住んでいる人が減ったこともあって、人情味あふれた人付き合いがなくなってきたのが寂しいと梅月堂さん。 「さあ今夜も一杯飲みに出かけるぞ」心の癒しが出来る中込の料飲街がお待ちしております。 梅月堂さん、工藤旅館さん取材ご協力ありがとうございました。次回をお楽しみに。 成田新道の中央付近。 左に「さかい」「梅月堂」の看板が見える。 ![]() 現在の成田公園付近にあった商工会館 ![]() 【中込商店街だより2008年11月8日付第154号より】 2008年 10月 18日
ちょっと昔の中込を顧みる「中込あのころ」今回は、中込の料飲街の今はなき「弁天通り」と「相生町」の通りのことを『船場』さんのおかみさんに、当時(区画整理前)の飲み屋街の風情や、通りのことについてお話を伺いました。
船場さんは、いまは料飲街のなかほどで、 小料理店として、また30名くらいまでの小宴会場として、地元の人から南北佐久の広い範囲からのお客様でご繁盛をつづけています。 「酒を飲みに行くなら中込」。と言われたとおり中込は、「佐久のシャンハイ」と呼ばれ、特に佐久地方では、沢山の飲み屋さんが軒をつらねた飲み屋街は有名で、その昔佐久鉄道が通るようになった(大正4年)頃より飲み屋さんや遊郭がぽつぽつできはじめ、それが今のような一大料飲街になり、名が知れた。 弁天通り さて、この弁天通りは名前のとおり弁天様が祭ってあったことからこの名前がついた。銀座通りから相生町へぬける自動車一台がやっと通ることができる細い路地。銀座通りから入ると、 パチンコ店と臼井屋さんが、その奥に弁天様が祭ってあり、クリーニング店、旅館弁天館、銭湯の亀の湯、江元治療院があり、それ以外は両側が、スナック、バー、小料理屋さんが軒を連ねていました。 弁天通りの中ほどから中込用水を渡る小さい橋があり、郵便局のある本通りへ抜けられる小道がありました。この道は用事に出かける便利な近道として、知る人ぞ知る道で、大分利用されたようです。 相生町 相生町はと言うと、現在の長野銀行のある交差点より千曲川の堤防にぬける道で、今とあまりかわることがなかったが、昔とまったく変わらない場所に新装したお店や、移転したお店やらで、さまざまです。 お祭り 祭事と言えば、夏の祇園祭。今では野沢だけで、中込は一切催されていないが、当時は、料飲店の老若男女が神輿を担ぎ中込の町を数基が威勢良く練り歩いた。記者も若い女性が神輿の上に上がり、民衆の注目を浴びている姿を思い出しました。若きころの船場さんのおかみさんも参加しては、ひと時の思い出として深く残っていると、話してくれ、またできれば復活して中込の町をにぎやかにしたり、仲間の親睦を深めたいと語ってくれました。 ◇ ◇ 「船場」のおかみさん取材ご協力ありがとうございました。 「中込あのころ」次回をおたのしみに。 当時の弁天通り。和泉・サニー・エンゼル…などの看板が見えます。 ![]() お祭りのようす(船場のおかみ)提灯には「弁天通り共栄会」の文字が読めます。 ![]() 当時の相生町。写真を拡大すると、さかがみ・とん吉・リカ・三羽などの看板が見えます。 ![]() 【中込商店街だより2008年10月18日付第151号より】 2008年 07月 17日
今回から初登場の、「中込あのころ」、第一回目は、元中込駅通り商店街(朝日町と言っていた)にあり、現在はグリーンモールにあります「マルト大塚商店」に昭和37年ころ(1962年)の中込の状況を当時社長であります大塚今朝雄様(現在は会長)にお話をお聞きしてまいりました。まず、当時まだ少ない鉄筋コンクリート三階建ての新築店舗の写真をみながら、当時を振り返ります。
◇ ◇ 「この建物は、平賀にある中込会館と同時期に建設され、区画整理のとき東側を少しけずって現在の場所へ曳き移転した。店の前には、三輪トラックの『ミゼット』。この車で川上まで、セールスや配達に行きました。国道がまだ舗装されておらず、泥んこ道をガタガタ行ったことや、雪の降ったときはすべってたいへんだった」などの苦労話しも聞くことが出来ました。 オートバイの「メグロ」に乗って配達もしたようですよ。 当時の飲み物というと、一般には日本酒「井筒長」などの二級酒と、トリスやオーシャンといったウイスキーが多く、次にビール、当時はキリンやサッポロが主に飲まれていて、焼酎は現在のようにたくさんは飲まれていませんでした。 中込も、飲み屋さんが大分増え、「トリスバー」、「くろんぼ」や「ニュートーキョー」といったいわゆる「バー」が主流だったみたいです。昇り景気の時代お得意さんがどんどん増えて大塚商店も大忙しだったことでしょうね。 催し物と言えば、 5月の「鯉祭り」。当時は、5月3日は岩村田、4日は中込、5日は野沢、と三町で行い、大名行列、民謡流し、張りぼての鯉を引いたり、車に乗せての大行列。駅通りは車がすれ違うのがやっとの幅しかないので、通過が大変だった。 道路が人と車でいっぱいになったのが、今もよく覚えているとのことです。 中込公園では、橋場町民運動会が毎年の数少ない楽しみの一つ。当時9区(?)あった各区より大勢が集まり、仮装行列やリレー競走などで汗を流し楽しい一日を過ごした。他には木下サーカスが来て、他町村よりの見物客で町の通りが大にぎわいになったのを思い出すそうです。(記者もその中の一人でした。) 当時の中込の駅前はと言うと、ロータリーも何もない広場で、駅に向かって右側には大きな、中込や周辺の地図が描かれた看板があり、駅舎は現在とあまり変わらない姿をとどめていて、夏は盆踊りがその広場で盛大に行われ夏のひと時を楽しまれたようですよ。 まだまだいっぱい思い出話があるようですが、次の機会に語っていただくのをお約束していただき、ご繁盛を続けるマルト大塚商店を後にしました。取材ご協力ありがとうございました。次回の「中込あのころ」は、8月16日の予定です。ご期待ください。 当時のマルト大塚商店。区画整理の時にミゼットのあるあたりを削って曳き移転しました。 ![]() 佐久鯉音頭(歌は三橋美智也)のレコードジャケットより、昔の駅通り商店街のようす。拡大すると左にマルト大塚商店の看板も見えます。 ![]() ◇ ◇ 当コーナーに投稿またはお話をお聞かせいただける方は、商店会事務所までご連絡いただけたらありがたいです。薄謝いたします。 【中込商店街だより2008年7月19日付第138号より】 < 前のページ次のページ >
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